追 悼:山原克二(1947年~2020年)

7月 23, 2020

同氏が40代の頃、日本の労働組合運動は大きな変化に直面した。同氏が活動の拠点としていた総評は解散し「連合」が誕生した。当時総評に所属していた多くの活動家が日本の労働組合運動の前途に希望を見出すことを諦め流れに身を任せる中、同氏はこの流れと袂を分かち全ての労働者に門戸を開いた新しい労働組合を組織する道へ進み、1991年のネラルユニオンの創立に至った。これ以降、ゼネラルユニオンは当初の日本人組合活動家の集団から語学産業や大学・学校で働く外国人労働者が多数を占める労働組合へと歩みを勧めた。同氏は、新しい組合員にも言葉の壁を気にすることなく親しく接する指導者であり、それは今日のゼネラルユニオンの文化の不可欠な一部として継承されている。同氏は若い、新しい活動家を信頼し、仕事を任せることで育成した。豊富な知識と経験の持ち主であった同氏は、彼らを決して「自分の指導下に置いておく」ことはしなかった。同氏は経営者達も組合員も舌を巻く卓越した交渉者であり戦略・戦術家であったが、組合員の誰とも同じ目線で接する指導者だった。同氏の活動はゼネラルユニオンでのそれに留まらなかった。同氏は「労働情報」誌の主要メンバーの一人であり、また、「アジア太平洋労働者連帯会議」(Asia Pacific Workers Solidarity League)の活動にも積極的に参加した。韓国、台湾、アメリカ等の労働者が日本企業との闘いのために来日した際にはその受け入れの一翼を担った。同氏の活動の基礎は「世界の労働組合運動」にあった。同氏は多くの人々にとって父親、あるいは兄弟だった。闘いの中では同志だった。そして、日本の労働組合運動全体が沈滞を余儀なくされる時期にあってゼネラルユニオンを発展に導いた指導者だった。

「山原さん」はその人物を知る全ての人々から、いつまでも愛され惜しまれ続けるだろう。

同氏は本当に多くのものを我々にもたらしてくれた。そう言うときっと彼は「そんなことはない、ない」と笑って否定するだろうが。