
1949–2026
5月17日、ゼネラルユニオンの定期大会で、浅利俊明はふたたび委員長に選出された。しかし、その場に本人の姿はなかった。彼が大会を欠席するなど、考えられないことだった。組合員の間に不安が広がった。そして、その同じ夜、私たちは知らせを受け取った。前々日の木曜、不慮の転落事故で、浅利委員長が亡くなっていたのである。享年77。
浅利俊明は、1949年3月18日、熊本県に生まれた。両親は農業を営みながら、教職にもあった人である。
ここに私たちが書き残しておきたいのは、組合員の多くが知る機会のなかった「浅利俊明という人」のことである。
浅利委員長がゼネラルユニオンの扉をくぐったのは、2015年。彼にとってはずいぶん遅い出発だった。だがそれまでに、彼はすでに一つの政治的人生をまるごと生き切っていた。左翼運動、労働運動に長く深く関わり、古い、規律ある組織のあり方を身体で覚えた人だった。
彼はよくこう言っていた。「自分は、ゼネラルユニオンのような場所にめぐり会うのを、生涯ずっと待ち続けてきた。ただ一つの心残りは、こんなに歳をとってからしかこの新しい章を始められなかったことだ」と。彼は、私たちのことを愛していた。それを言葉にすることをためらわなかった。むしろ救われたのは、私たちの方である。
ゼネラルユニオンに来るまでの彼の道のりも、また一つの物語だった。若き日、彼は東京大学に入学したが、そこに学ぶべきものを見いだせず、大学を去った。「人と仕事の中にこそ学ぶものがある」、それが彼の判断だった。在学中から、視覚障害者の支援活動に打ち込んでいたという。その後、長く機械工として働き、やがて高槻で小学校の登下校の見守り員になった。一見すると、労働運動の最前線とは無縁の仕事だった。だが、そこで彼は人生を変える出会いをすることになる。
高槻で交通安全に立っていた彼は、住居、労災、そして「そもそも自分たちは労働者なのか」という根本的な身分の問題に苦しむ一群のALTたちと出会った。彼は迷わずその問題に飛び込んだ。そして、彼らの何人かをゼネラルユニオンに連れてきた。
正式に彼を組合に迎え入れたのは、創立委員長の山原である。浅利委員長はよく語っていた。「山原さんのことは、こちらは知っていた。関西の労働運動では、山原は伝説的な存在だったからな。でも、向こうがこっちを知っていたかといえば、せいぜい顔と名前くらいだろう」と。私たちが彼をリクルートしたのではなかった。興味を持ったのは、彼の方だった。
最初に頼んだのは、小さな仕事──組合創立25周年の記念誌の調査と執筆だった。だがその本は、ついに完成しなかった。彼が机に向かって作業を始めた途端、私たちは彼が他のあまりに多くの場面で不可欠であることに気づいてしまったからだ。あの25周年史は、今に至るまで出版されていない。
彼は、いつでも事務所にいた。彼がそこにいる時間が長くなるほど、彼が引き受ける仕事は増え、そして気がつけば、彼はもう、ゼネラルユニオンが手放すことのできない人になっていた。
彼は毎朝4時に起きた。農家に生まれた者の習慣を、彼は終生失わなかった。事務所に一番乗りするのは、いつも彼だった。彼が一度、自分なりの「敵情視察」の話を聞かせてくれたことがある。自民党本部は、朝5時半にはもう明かりがついていて、人が列をなして出勤してくる。一方、社民党の事務所に人が顔を出し始めるのは、10時頃だ。「あいつらが俺たちより一日4時間長く働いているのに、どうやって勝てるというのか」──彼はそう言った。
浅利委員長がゼネラルユニオンに築いた柱の一つ──この10年、この組合を支え続けてきた柱の一つは、「知ること」の仕事だった。彼には、必要な情報を見つけ出し、それを理解し、説明し、しかるべき相手のところまで取りに行く、稀有な能力があった。
彼が組合に加わってまもない頃、私に一つの問いを発したことがある。忘れがたい問いだった。彼はこう前置きをした。「あなたに聞くのは、まっすぐに答えてくれると思うからだ。『君の好きにやればいい』というような答えではなく」。そしてこう尋ねた──「組合は何を必要としているか」。
自分が何をしたいか、ではなかった。自分のどこに力があると思っているか、でもなかった。組合に必要なことは何か、と彼は問うた。多くの活動家は自分から出発する。浅利俊明は、組織から出発した。
私が返した答えは、嘘のない答えだった──組合に必要なのは、「知識」だ、と。
組合員の中には、彼を弁護士だと思い込んでいる人もいた。彼は弁護士ではなかった。彼は、法律というものを学ぶ手間さえ惜しまなければ労働者の側に引き寄せられる、と理解している活動家であり、闘士だった。彼は裁判所に幻想を持っていなかった。それが普段、どちらの利益に奉仕する装置であるか、彼は誰よりよく知っていた。だが彼は、その認識の後ろに隠れて何もしない、ということを拒んだ。「俺たちが生きているのは『今、ここ』だ。だから『今、ここ』で闘うのだ」。
この国で労働者を守る制度の多くは、日本語で書かれ、官庁の奥に仕舞われている。文書を読むだけでは、官僚たちの本音には届かない。担当者の前に座り、その人物を「読む」ことのできる者が必要だ。それが、浅利委員長の仕事になった。
ALTをめぐる省庁交渉の場面を、私はよく思い出す。「組合対政府」の、古典的で、形式的な対決の構図。彼はその構図を笑っていた。本物の交渉とは似ても似つかない、と。私たちはそこに怒鳴り込みに行っているのではない。組合員のために、情報を取りに行っているのだ──彼はそう考えていた。だから散会のとき、浅利委員長は出口に立ち、相手の官僚一人ひとりに自分の名刺を確実に渡した。名刺を受け取った相手は、礼儀として自分の名刺を返さざるをえない。普段ならけっして出てこない一枚が、こうして手元に残る。それが彼だった。少数派労組には武器が少ない。情報と人間関係は、その数少ない武器のうちの二つだ。彼は、そのことを私たちの誰よりも早く理解していた。高槻の地労委闘争を高裁まで持ち込めたのは、ひとえに彼の積み重ねた仕事の上にである。
彼が組合に来てまもない頃の言葉のうち、私たちの胸に残り続けているものが二つある。
一つは、ゼネラルユニオンのやり方を知ったときに彼が口にした言葉だ。「ここは、本道だ」と彼は言った。それは、彼が出せるかぎりの最大級の賛辞だった。彼の口から出る「本道」という言葉には、重みがあった。組織を大切にし、組織を強くつくり、強く保つことを使命とする伝統──彼は、その本道の系譜に自らを置いていた人だった。労働運動とは何か、組織とは何か、それを彼は身体で知っていた。そして、ゼネラルユニオンの中にそれを見つけた。
もう一つは、お金のことである。最初の数回の執行委員会に出席した彼は、財政の帳簿が組合員の前にすべて開かれていること、そして組合の財政が「力をつくる柱」として正面から議論されていることを目にした。そして彼は思ったという。「これは、組合なのか、銀行なのか」と。こんなふうに財政を扱う労組を、彼はそれまでに見たことがなかった。その事実は、彼の芯まで沁みたという。
浅利委員長がもっとも光ったのは、コロナ禍の時期である。あの2年近く、彼は週7日働いた。長時間に及ぶ、容赦のない日々だった。彼はすでに70代に入っていたが、我々の誰よりも働いた。それでいて、自分がどれほど働いているか、どれほど疲れているか、どれほど立派な活動家であるか──そういうものを、彼は一度も「見せる」ことをしなかった。彼は、静かな実力者だった。
彼は、委員長の地位を誇ることがなかった。2020年に委員長に選出されてからも、彼は自分のことを、ちょっと笑いながら「組合の世話係」と呼んでいた。冗談ではあった。だが同時に、それは彼が委員長という肩書をどう生きるかについての、彼なりの答えでもあった。会場の予約をしてくれと頼まれれば、彼は引き受けた。デモのプラカードを運んでくれと頼まれれば、彼は引き受けた。使用者と団体交渉の席に向かうこと、地労委で組合を代表して立つこと──それらと、ホールの予約やプラカード運びとの間に、彼は何ら序列をつけなかった。「自分にふさわしくない仕事」など、彼にはなかった。なぜなら、彼にとっては「自分にふさわしくない人」が、いなかったからだ。
そして、彼は優しかった。「優しすぎる」と人はよく言った。その通りだったのだろう。彼は、誰の頼みも断れない人だった。
これが、ゼネラルユニオンが失った浅利俊明という人である。彼は、長い長い人生をかけて、私たちのもとに辿り着くのを待ち続けていた。そして辿り着いた瞬間から、彼は持てるものすべてを私たちに差し出した。
救われていたのは、私たちの方だった。

団結
ゼネラルユニオン一同
