堺・泉州民衆の歴史。古墳―大和川―シルクロード

Oct 2, 2018

堺市の百舌鳥(もず)古墳群は、前方後円墳が世界一密集している。この型の古墳の原型が朝鮮半島か日本か、両国でホットな論争中である。「立入禁止・宮内庁」と書かれ、3重の堀に囲まれた世界最大の面積誇るこの古墳の内部は、手付かずの森となり野鳥の天国である。「天皇の墓で不可侵」として、誰の墓か?知られると困るのである。今から千数百年前に続々できた古墳の被葬者である権力者は、朝鮮半島から来た渡来人たちが多い。「偉大な外国人たちが日本を支配」など、を認めれば、皇国史観がすたる。排外主義と征鯨論が高まった江戸末期と明治時代に、「これらの古墳は天皇の陵墓とする」とし、手当たり次第、デタラメに命名した。そのため、神武など実在しない者まで墓の主となった。その他、200歳まで生きた天皇もあることになる。

 

最近では、教科書も歴史学者も「仁徳天皇陵」と呼ばす、堺の地名で「大仙古墳」と呼び、宮内庁に対し、調査のための立入りを要求している。異議ナシ。
私【山原】は、路面電車存廃公聴会で「古墳を世界遺産に」と、木原市長に提言したが、虚偽の歴史を申請しろとは言っていない。

堺は「環濠の自由都市」で有名である。町衆の合議制によるそれなりの自治もあったとかで、さしずめ、中世のコンミューンかもしれない。長崎の出島は、「鎖国?」日本の例外として、その国際交流が評価されている。もっともそれなら、対馬藩と朝鮮や、琉球とアジアとの交易や、江差藩とアイヌの交易が、公式かつ大規模にあったことや、堺の自治都市を、もっと学校で教える必要がある。
織田信長・豊臣秀吉、この独裁者たちは繰り返し、堺や大阪の町衆をオドシ、聞き入れないと、再三焼きうちまでした。そして、屈伏の証拠に堀を埋めさせた(同じことを、豊臣が徳川家康から強制されたのは皮肉な歴史である)。

石山本願寺の平和的な寺内町であった大阪を破壊し、「一心一向」を叫ぶ民衆を大量殺戮したのも織田であった。特に泉州・和歌山では、雑賀衆(さいがしゅう)・根来衆(ねごろしゅう)といった鉄砲衆の抵抗が、長く続いた。
このパルチザンは、豊臣の朝鮮侵略時、寝返って、朝鮮民衆に鉄砲を伝え、日本軍の敗北に貢献し、現在でも末裔である沙也加=サヤカ姓が健在で、韓国で英雄となっている(朝鮮通信使の研究で有名な在日の堺市民で映像作家の故・辛基秀がこの史実を発掘紹介)。

京都・琵琶湖から来る淀川と、奈良から来る大和川は、大阪天満橋の中之島付近で合流しており、再三の洪水に見舞われたという。そこで、大和川を奈良県境から真っ直ぐ大阪湾に流れるよう「付け替え」が行われた。「江戸末期、中甚兵衛という偉大な人物がこの事業を指揮、洪水は減少した。だが一方、新しい川が流す土砂で堺港が埋まり、堺の繁栄が終わった」と、大阪の学校で使う副読本には記述されている。

しかし、被害はそれにとどまらない。強制執行で田畑や家を奪われた人、難工事に駆り立てられた人、そうした恨みは今も消えない。矢田・浅香・松原などの地域では、被差別部落の歴史とこのエ事が不可分であり、部落解放同盟では、「大和川を民衆に取り返そう」との地域総合計画を進めている。一方、干上がった川筋跡の東大阪・大東・寝屋川地域では、肥沃な農地が出現し、工事に債券投資した富豪が大儲けし、ここで鴻池などの財閥が形成された。

開発優先の「高度成長」期大阪府は、取り返せない愚行で、堺・泉北の海を人工的に埋め立て、臨海コンビナートを作った。それまで白砂青松の美しい海水浴場であった大浜・浜寺は、コンクリートだらけのドス黒い海岸に変貌した。四国や九州から集団就職の若者が、新日鐡などの大工場で汗を流したが、こうした時期は永くは続かなかった。オイルショック以降、溶鉱炉は次々消え、大量の失業者を生んだ。現在の臨海工業地帯は空き地が目立ち、結果、バードウォッチングと魚釣りのメッカとなっている。新関西空港がらみの「りんくうタウン」という鳴り物入りの大プロジェクトも、企業が進出せず、既にゴーストタウンの趣である。

このように、堺や泉州は歴史上「大阪の影」になり続けている。破壊された自然と環境は、もう戻っては来ない。さらに、開発や戦乱の度に民衆が犠牲となるのは、これっ限りにしよう。再三の汚職に怒りを燃やし「倫理条例・情報公開条例」を日本で最初に作ったのは堺の草の根市民運動であり、今それが、全国展開している。
朝鮮侵略に抗議して切腹させられた千利久や、「山が動く」と予言した与謝野晶子のようなカツコ良い堺市民にはなれないが、天皇危篤時で歌舞音曲の自粛が強要されていた時期にも、ダンジリ祭を中止しなかった意地もある。 「泉州の民衆は闘うでェ!」

 

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