台湾大震災に屈しない被災者運動と民主労組

Oct 2, 2018

高雄の会場や宿舎は高雄市が用意し、全台湾から高雄市に結集した全国産業総工会は、全員が黄色い喪章をつけ、黙祷から始まる重苦しいものとなった。この「外国人労働者分科会」でも、「震災に乗じて、外国人労働者が報復的暴動」などの排外的ウワサが広まっている危険性が指摘され、関東大震災亀戸事件の例も報告されるなど、真剣な討論がなされていた。

 

現在、多数のボランティアが台湾に駆けつけているが、大阪の「多文化共生センター」もさっそく、10月初句から台中市を起点に6カ国語で地震情報サービスを開始した。被災者の中には多くの外国人労働者も含まれているが、状況はよく判っていない。そこで阪神大震災で開始したこの活動をいち早く現地で実現したもので、台湾でも驚きをもって迎えられた。しかもテレビを見て、日本人のボランティアをサポートしたい、という台湾人活動家からの電話が殺到しているという。(℡台湾04-387-3714。知人に台湾在住の外国人がおられたら、教えてあげて下さい)

また、台湾中部山岳は水力発電の宝庫だが、ダムが破壊され(洪水は回避されたが、)、台湾全土の電力が極端に不足している。そのため台湾全土で再三の停電が続いており、復旧には、相当な日数が必要のようだ。また、台湾政府が不足する電力を、シリコンバレーと言われている新竹地区に優先配電していることに対して、「日米多国籍企業への優遇」と批判が高まっている。

原発は台湾の北端などに立地し、直接の被害はなかったと言われている。しかし、私の台湾滞在中でも、茨城県東海村臨界事故が発生。全ページ震災関連で埋まっている台湾の新聞でも、東海村事故は大きく取り上げられた。「震災も怖いけれど、放射線も怖い」「もし原発直下で地震が発生すればどうなるか?」と、原発先進国?、から来た我々も、行く先々で質問攻めにあった。

電話線復旧は電通労組、鉄道再開は国労、と業務と組合活動あげて組合員が頑張っていた。我々のからの帰国に際し、国労が尽力してくれた列車で、高雄から台中、そして彰化にと逆戻りし、今度は海側線経由で台北に抜けることができた。高雄駅プラットフォームでは、機関士と車掌の組合員が、私たちに花束と果物を贈呈してくれた。

私(山原)は、10月2日に新城市の被災者190人が起居している避難所(児童活動センター)を訪問した。兵庫の自治体から急送された仮設住宅も到着していた。粉ミルクやカップラーメンが積み上げられている様も、阪神大震災とまったく同じであった。しかしそこでは、市当局との激しい大衆団交が開始されていた。そして自助会(自治会)の役員から促がされ、ボランティアの学者・弁護士と共に私も激励のあいさつをさせていただいた。
ここでも、建設会社はもちろん、建設許可を出した行政、そして手抜き工事裁判を住民敗訴に追い込んでいた司法などに対して、国家賠償を求めること、現行法で無理なら、特別立法を要求することなどが討議されていた。台湾でも、すぐに被災者組織が各地にでき、ボランティア運動も高まっているなど、阪神と同様に「新たな共同社会」の始まりとして注目された。しかも政府への要求と闘争が、顕著な特徴となっている。

台湾では戒厳令撤廃以降、無血革命と言われるほど民主化が進行している。季登輝総統は責任追及にさらされながら、被災地に連日入ったままである。行政の対応、台湾内外のボランティアや海外支援の立ち上がりも、驚くべきスピードである。(ただし、中国政府は「台湾は中国の一部だから、各国赤十字から台湾赤十字への直接援助は認めない」と言明。台湾民衆の北京政府への絶望は一段と高まってしまった。)

「分譲住宅崩壊後のローン残額は支払う必要があるか?」。この難問題に対して、政府・台北県・台北市がそれぞれイエス・ノーに見解が分かれ、また二転三転するなど混乱している。がその後、日本では実現しなかったが、李登輝政権は「住宅をなくした被災者は、二重ローンを返済しなくてもいい」とし、銀行と被災者に公金を投入した。一方、震災1週間以内に犠牲者への見舞金は100万元(350万円)、を支給した。私から見ると、当時の日本政府では考えられない前向きの行政と見受けたが、保革逆転の民主改革を勝ち取りつつある台湾の流動的政治状況を示しているのだと思う。

しかし台湾民衆にとって、これでも全く不十分なのである。そこで国慶節前日の十月九日、総統府前広場に千数百人が集まり「被災者大集会」が開催された。ここへ、日本からのアピールを求められた。そして神戸から一緒にきた「被災労働者ユニオン(黒崎隆雄委員長)」の熱いメッセージが発表され、大反響であった。この日、被災者は徹夜で座り込んだ。
[支援連絡先=]
全国産業総工会推動準備委員会=台北市許昌街7号6楼台汽工会内

 

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