ヨーロッパ訪問記

Oct 2, 2018

ポーランドでは、ググニスク造船所などの「連帯労組【ワレサ委員長】」の活動家が、極度のインフレと混乱にもめげず、「今が最低、これから良くなる」と、ゼネストで、独立をかちえたような明るさであった。ドイツとロシアにはさまれ、過去何度となく国の解体や分割があった。
アウシュビッツ強制収容所では、ユダヤ人だけでなく、「ジプシー」だと差別される民衆や、ポーランド・スラブ人たちが虐殺された。民族迫害のため、異郷の地で「外国人」「移民」にならざるをえなかったヨーロッパの歴史と重なる惨禍である。
ポーランドと東ドイツへは、同じ「社会主義?圏」ということか、より厳しい経済環境のルーマニア・ベトナム・キューバなどからの出稼ぎも、歴史的に多かった。ところが、この一年間、東欧各国の民主化闘争が高揚し、多くの要求が実現し、次々と国境も開放されたため、関を切ったように「南から北・東から西」へ、国境を越えた民族大移動がおこっている。

 

各国の「壁」の多くは、全滅した。何百万人ものソ連民衆が越境することもありえることだ。私たちは、ワルシャワのポズナニから、東ドイツへは、ドイツ統一直前に夜行の国際列車を利用した。今はなき東ドイツ(DDR)の入管に何度も叩き起こされたあと、早朝東ベルリン駅着くと、プラットホームはアラブやアジア系の出稼ぎ労働者であふれていた。家財道具をかかえ、真っ暗な西ベルリン駅への通路を歩いていけば、「壁」もなく、西ドイツ地下鉄、そしてドイツ。そしてどの国へも自由に行ける。諸民族あふれる西欧各国そして、西ヨーロッパ各都市は、世界中の諸民族があふれているという印象だった。

当然のことかも知れないが、アフリカ出身と見受ける大柄の黒人女性が市電やパスを運転しているし、パリでは小学校の遠足に出会ったが、何とも微笑ましい民族交流の列であった。差別慣れしている私たちは驚き、また感激した。
オランダⅤOLⅤOの生産ラインでは、ヒゲのアラブ人と金髪でジーンズの女性がコンベアーで仲良く部品をとりつけていた。私が招かれたⅤOLⅤO労組の執行委員会も多言語で、驚いたが、当日夜が、ドイツ統一の瞬間と重なり、一緒に何度も何度も乾杯した。

西欧各国政府は、1955~68年ころにかけて、アフリカなどの諸国と「外国人労働者募集協定」を締結し、国策のもと多数の移民を迎え入れ、「奇跡の高度成長」をとげた。しかし、73年ころのオイルショックで国内雇用不安が起きると、政府と労使は、一転して排斥を開始し、政策は二転三転した。現在は募集などせず、外国からも自由に行けるということであり、私達は「国境や入管はどうなったの」と戸惑い、ポーダレスを感じざるをえなかった。

オランダでは、移民条約の結果、現在、トルコ人(27万人)・モロッコ人(13万人)を数えるが、新たな出稼ぎは認めない」となっている。だが規制といっても「家族を本国から呼び寄せることは自由」であり、高い出生率や、新規
「不法入国」もあって、全体として増加が著しい。
「トルコの大都会はイスタンブールとベルリン」の例のごとく、西ドイツのトルコ人は104万人にもなる。ユーゴ・イタリア・ギリシャ人などを含め、全人口の7.6%、463万人が居住する。この比率を日本にあてはめると1000万人となる。さらに、「統一」以降、難民化も含めて急増している。旧東ドイツでは、送金のストップと物価高騰で、失業が拡がっており、一方で以前からドイツにいた外国人労働者を排斥する解雇が多発している。

戦禍と分断を越えた「統一ドイツ」の本質を改めて問わざるを得ず、偏狭なナショナリズムを越えた、民主化の発展と改革に希望を託すのみである。

外国人の結社の自由をかちとった後、トルコ人の会ができ、今は行政の援助もあってどの都市にもある。当初の活動は権利をオランダ政府に知らしめ、街の改善などを要求してきたが、今は入国制限や差別に反対したり、トルコ語教育に重点を置いている、という。健保・生活保護・参政権(地方選のみ)などはオランダ人とかわらず、職場では同一労組で活動している。オランダ政府は各国からの亡命者や政治犯も受け入れているし、やはり繊維労働者を中心に
「不法滞在」も三万人いる。だが、「強制送還」はまずなく、逆に自由意志の「帰国奨励金」がある。しかし、利用は極めて少ない。

モロッコ人移民はヨーロッパ全体で1500万人いるが、オランダでも5歳以下の子供の5割は移民の子供だ。アムステルダムにあるモロッコ人会の活動を紹介しみると、いま、他の民族団体とも共闘し、オランダ人からの差別と、ファシストからの攻撃に反対し、子供を守り自立させる取組みをしている。

対政府要求は、①活動の自由、②警察によるパス点検廃止、③教育と社会における自分たちのアイデンティティ確立、④住宅、⑤労組活動の自由・工場内の差別反対、⑥国政選挙参加、⑦VISA制度廃止、⑧モロッコとの往来自由、⑨環境保護・平和、⑩生活・労働相談制度、⑪市の社会教育拡充、である。

パリでは、「イメディア」という、外国人労働者の横断的な雑誌の編集部を訪ねた。一世の苦労を受けとめつつ、三世の同化に危倶を感ずる二世の青年たちが、差別に立ち向かい、自分たちの文化を守る。そして、「多民族国家としてのフランス人」の認識の確立のため奮闘しており、パリを揺るがしている高校生運動の中心もこうした外国人の若者である。
1992年のEC統合で通貨を一つにし、VISAの廃止を宣言しているが、実は各国がかかえる膨大な外国人労働者の扱いで委員会は紛糾している。比較的リベラルなフランス・ベネルックス三国とイギリス等の対立、移民を送る側の南欧・東欧の境界などが争点だ。全体の傾向として、統合EC域内は労働者の移動は自由にし、そのかわりに「アフリカ・アラブ等からは各国が誰一人として入れない」入管体制強化で大筋一致しているようだ。東欧・アフリカ等から
の流入拡大で様がわりしているヨーロッパを統合しようとする時、真の国際主義へ前進するのか、大ヨーロッパ主義という亡霊が台頭するのか、注目される。

先進国の中で、短期の単純労働力を受け入れている国はない。したがって、ヨーロッパ外国人の多くは「出稼ぎ」というより「移民」としての歴史をもっている。故に、失業との闘いが重要である。失業保険があるといっても、失業率は常時40~60%と深刻である。しかし団結体は、日本の「民族学級」や部落解放同盟の闘いに共通した立場を持っており、各国政府の政策も、日本に比べるとリベラルに見えてならなかった。モロッコの活動家は、「警戒すべきは、統一したドイツと、経営管理を輸出し、土地を買い占める日本資本である、と指摘した。

西欧各国政府は、1955~68年ころにかけて、アフリカなどの諸国と「外国人労働者募集協定」を締結し、国策のもと多数の移民を迎え入れ、「奇跡の高度成長」をとげた。しかし、73年ころのオイルショックで国内雇用不安が起きると、政府と労使は、一転して排斥を開始し、政策は二転三転させた。

これらの歴史を想起すると、東欧革命やEC発足の過程での国境や入管が廃止されるという事態は、まさに画期的であり、排外主義日本とは違う、とポーダレスを感じざるをえなかった。

 

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