各地域で頑張るコミュニティユニオンもあったが、組合員の定着が難しく、活動家の自己犠牲で継続されている状況だった。この問題は、当時既に大きな壁となっており、残念ながら、今も十分克服できていない。我々はそれと違った形で自立し、あらゆるタブーを排して、本当に誰でも加入し活動できる、まともな合同労組を作ろうとした。丁度、総評のブレーンで「労働情報誌」の顧問でもあった清水慎三氏の著作にあった「ゼネラルユニオン論」に賛同し、労組名も借用した。「GENERAL」の中に、階級的共同と国際連帯を見、このネーミングが、日本人にも外国人にも、わかりやすく良かったと思う。
大阪全労協の仲間、そして在日外国人活動家らとの準備討論を経て、91年6月にゼネラルユニオンを結成した。多彩なメンバーで、既成労組が切り捨てた「臨職公務員・パート・外国人など」にアプローチを開始した。だが、特に反響が大きかったのは「国籍を問わず、外国語で相談を受ける」という宣言だった。もちろん、専従者や通訳の体制があった訳ではなかったので、怖さを知らなかった日本人スタッフにとっては、生き「生きた英会話学校」を余儀なくされた。
山原委員長も、自宅にまでかかる外国語の電話に苦労しながら、翌年には「社会運動のための和英辞典」を出版するまでになった。反面、トラブルを抱えて、相談に来られた外国人が、共に闘った後、労組の
レギュラースタッフとなり、ボランティアで相談を受ける側になっていく例が急増した。そこで以降、日本の労基法・労組法・入管法・雇用保険法などを英語と日本語で学ぶ「外国人活動家要請講座」を、山原委員長らを講師にして定期開催し、この卒業生が現在でも、ゼネラルユニオンの幹部や活動家になるなど、貴重な戦力となっている。
当時、外国人がまとまって労組加入をしたり、労組を自ら運営している先例は少なく、「全国一般東京なんぶ」からは、沢山のノウハウを頂いた。相談は連日、全国各地からあり、全国大手の語学学校と交渉する必要もあって、全労協の「全国一般全国協議会」に加盟した。現在は、ゼネラルユニオンの各地方への暖簾分けや、姉妹労組とのタイアップで、関東・東海・北陸・九州等に、全国ネットのカバーが完成している。
個人加盟制のユニオンだが、92年以降、多くの支部が各社・各職場に結成された。当初は、阪南大学・アサヒ外語【津市】・ミカドプロペラ【三重・フィリピン労働者】・ベルリッツなどだが、講師派遣大手のインタラックでは、全員で連続ストを実行し、「日本人も最近しないストを外国人が、」と、新聞・テレビで大きく紹介された。
インド料理レストランで働くインド・ネパール・スリランカの労働者や、紡績工場などで働く中国人女性【研修生・実習生】たちの過酷な労働問題もあり、これらもゼネラルユニオンが、通訳を募りながら、解決に努めている大切な活動である。一方、外国人が移住先で働く最大の職業は、圧倒的に語学産業であり、日本も例外ではない。それは、民間語学産業・専門学校・大学・高校・小学校と広がっている。
語学産業は、急成長したベンチャー企業の業界で、労働組合がない。
何百校あっても、システムも管理もなく、ピンハネやり放題の状態だ。
そのトラブルのホットラインがゼネラルユニオンになっており、この産業唯一の労組となっている。そこで我々の統一要求を、全国各企業に突きつけて、最も悪質な所はストをするという一点突破全面展開の争議活動をしている。
ユニオンは、賃上げ・レッスンへの十分な研修・授業準備時間確保などの、語学産業各社への統一要求を開始した。「なぜTV広告は、白人でブロンドばかりなの?」と、広告や講師採用の差別性も告発してきた。これらは業界団体である「全外教」などにも提起してきている。
94年に、アトニー・バイリンガル、98年にトーザ・リープの4社の大型倒産が発生した。突然の閉鎖で生徒の前払いチケットは踏み倒され、教職員も全員解雇というもので、大きな社会問題にもなった。
業界も行政も救いの手を差し伸べない中、ゼネラルユニオンのホットラインは鳴り続け、倒産後は、管理職を含め、大半の従業員が組合員となった。そのため我々は、未払賃金・雇用保険失業給付・転職の手続きだけでなく、生徒のチケットのローン・逃亡した社長の告訴まで、まるで管財人のように何でもすることとなった。
かくしてユニオンは、業界の本質に向き合い、被害生徒ともスクラムを組むことにもなり、業界各社は震え上がった。また、トーザ被害者生徒会とは共同で「消費者保護シンポ」を開催、通産省への要求などで頑張り「訪問販売法」の改正を勝ち取った。そして生徒会の要望により、98年より、ユニオン講師による寺子屋のような英会話自主レッスンである「ソサエティ21」を開講してきた。
外国人は使い捨て、とばかり、「1年契約で更新○回まで」という、差別的かつ労基法違反の契約が表面化してきた。94年大阪学院大学は「内規で外国人だけ雇用期限があった」と言い出し、アイルランド人講師を雇い止めした。彼女は裁判に訴え、ユニオンも大阪学院を再三包囲し、大きな問題提起をしたが、大学の中坊公平弁護士は、ユニオン立入禁止の仮処分までした。96年には東大阪市教委も、採用時にはなかった、「3年限度」を突然発表したため、ユニオンHONETU支部を結成し、交渉を開始した。市役所前座り込みやハンストなどを経て、3年期限の延長と教育長退任で決着をみたが、これら違法期限との闘いは、立命館大学争議にも継承されている。
ユニオンの大争議は他に、ジオス・NOVA・日米英語・ECCなどで連続した。97年のテソラット・デニス支部長解雇争議は、裁判・地労委・スト・ハンスト・生徒会との共闘はもちろん、全国各地の全労協や全国一般・ユニオンネットワークの仲間や、海外のジオス校での共闘にまで広がった。そして全面勝利で雇用継続を実現した。
だが、懲りないジオスは、ゼネラルユニオンとの「労基法遵守」の協約に違反して、残業手当を払わず、産休を拒否した。しかし退職強要に怒りを燃やす名古屋の日本人スタッフに告発され、楠社長は送検され、有罪となった。しかし会社が「このスタッフに残業手当を払うと、全国の職員にも払わねばならない」と、再び拒否してきたため紛糾した。結局、14名の残業手当と慰謝料支払いで、会社が完敗した。講師は、スタッフを管理者のように見がちであるが、共にスクラムを組む仲間であることを、この勝利は教えてくれた。
しかしまた、07年にも同様のサービス残業の告発があり、ゼネラルユニオンが全国400のジオス校に一斉FAXで、残業未払申告書と労組加入書を送信した。すると会社も「ユニオンは過激派」との反論FAXで応戦、しかしこれが不当労働行為で訴えられた。そして九州各地の日本人女性スタッフも一斉決起し、これまた全面勝利を勝ち取った。
日米英語学院は、ユニオンの歴史に何度となく登場する問題会社だった。「ユニオンはやくざだ。会社をつぶす」など聞くにたえないデマを流し、嫌がらせも多発した。そして次々に解雇し、組合つぶしを狙ったのだ。しかし、講師とスタッフ、日本人と外国人の支部員たちは、裁判やストを長期に頑張り抜き、「解雇係争中VISA」まで発給させ、01年3月、会社の謝罪と補償と原職復帰を獲得したのである。
ゼネラルユニオンは国際連帯を重視しAPWSL【アジア太平洋労働者連帯会議】・移住労働者ネット・RINK【外国人労働者とその家族の人権ネット】・ヨンデネット【日韓労働者連帯】などのNGOと連携している。相談と支援活動で、フィリピンとタイの領事館からの感謝状も頂いた。これらのチャンネルで、韓国・台湾・香港・タイなどの民主労組との交流や国際会議にも、山原委員長を派遣し、多国籍企業や移住労働者問題などでの、東アジア労働者ネットを構築してきた。
一方、世界各国から多くの労組や争議団が、毎年のようにゼネラルユニオンを訪問される。交流や国際会議もあるが、多くは、日本本社の対しての団交や抗議を目的とした国境を越えた争議団だ。本社労組が御用組合で、「連合」は動かず、全労協やユニオンの出番となる。
最近10年だけでも、韓国のアジアスワニー、アメリカのブリジストンファイアーストン、ロスのニューオタニホテル、リバプールの全港湾、タイのスズキ自動車、フィリピンのトヨタ、韓国のオムロン電機【勝利後、山原委員長を韓国馬山でのシンポに招待】など、枚挙にいとまがない。海外の同志・在日外国人・日本人組合員が、一緒にピケを張り、合宿し、勝利を模索する感激はひとしおだ。宿舎や宣伝カーなどの提供はもちろんのこと、争議戦術や両国労働法比較などの共同討論には、ユニオンの多言語運動の経験が役立っている。